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新時代通信No90【宇宙のしくみ8】

21年11月24日

この通信は宇宙のしくみをお伝えします。宇宙のしくみの中に、あまり知られていないものがあります。それは人と人が愛する時に生まれるエネルギーの存在です。特に男女の愛で。愛するとは肉体的な関係ではなく、相手のことを献身的に思うことです。相手のためにただひたすら見返りを求めず、相手が幸せになってくれることを願うことなのです。

 

愛にもいろいろありますが、相手のことをひたすら幸せになってほしいと願う愛こそが本当の愛と言えるでしょう。人はどうしても見返りを求めてしまいます。これだけしたのだから返してもらって当たり前だと思ってしまうのです。その思いが強くなると嫉妬や憎しみに変わってしまうのです。かわいさ余って憎さ100倍という言葉がありますが、まさに見返りを求めてしまったために、そのようになってしまうのです。では見返りを求めないようにするにはどうしたらよいのか、それは自分の心に正直になることです。正直とは、相手に対して何を求めているのかをしっかり考えることです。最初はよかれと思ってやっていても、だんだんと欲が出てきてこれだけやってあげたからには何かしらのことをしてもらわないと気がすまないと思うようになるのです。そのような思いが出てきたら、一度その人にやってあげることを中断するのです。そして何のためにやってあげているのかを今一度考えてみるのです。見返りを求めていないか、本当にその人のことを思ってやっているのか、このまま続けてよいのか、さらにはその人が本当に幸せになるのかなどを。その上で、続けるかどうかを決めるのです。

 

見返りを求めない行いこそが本当の愛なのです。本当の愛はとても強いエネルギーとなって相手に伝わります。そうするとその愛のエネルギーを受け取った人は、とても強い力を持てるようになるのです。強い力とは、その人が何かをしようとしていたり、何かに挑戦していたり、苦しんでいたり、悩んでいたり、闘病していたり、そして何かを成し遂げようとしていることを実現させてくれるのです。苦しみや悩み事、そして闘病も改善したりします。すべてと言うわけではありませんが、願いが強いほどそれは現実化していきます。そこには一切の見返りを求める我欲はありません。今でも行っている人もいるでしょうが、神社やお寺で昔から行われてきたお百度参りがあります。家族の病気や愛する人のことを思って神仏にお願いをするのですが人に見られないことが条件で、百回のお参りが一度も人に見られずにできたならばその願いは成就すると言われています。見られないためには真夜中や明け方に行うしかないためとても大変なのですが、ただひたすらその人のことを願うことが神仏に通じていくのです。

 

愛の力とは実は神仏の力なのです。ひたすら相手の幸せを願うと、それを実現させようと神仏が動き出すのです。神仏は無限の力を持っています。その力はある意味で人のために使われるものなのです。人が無償の愛を放つ時に、神仏の力がその愛に加わるのです。つまり、神仏の力は無償の愛に引き寄せられるのです。これが本当の「引き寄せの法則」なのです。自分の我欲を満たすためものではなく、人のためにあるのです。そのことをしっかりと認識するようにして下さい。「引き寄せの法則」はだれでも使うことができます。ひたすら相手のことを願って下さい。神仏はその力を使ってもらいたくてしょうがないのです。

 

「引き寄せの法則」については大方はわかっていただけたでしょう。人のために願う愛が神の力を引き寄せるのです。そのことを知れば多くの人が人の幸せを願うようになり、神の力はめぐりめぐって自分に返ってくるのです。このことが徳を積むことになるのです。昔から徳を積むと良いと言われてきましたが、具体的にはよくわからない所がありました。なぜなら、いつ、どこで、だれに、何をしたらよいのかが明確になっていないからです。当然なことですが、だれも知らないのです。ただ漠然としているので良いことだとはわかっていても、なかなかできないのです。簡単なことなのです。いつでも、どこでも、これはと思う人のことが幸せになるように、そしてその人の望んでいることが成就するように願うのです。何度でも。それが徳を積むことなのです。あまりにも簡単すぎて説明しようがなかったのです。しかし、今この通信を読まれたからは今日から、今から徳を積むことができるのです。あとはその人が幸せになるまで、その人の願いが成就するまで願うのです。たとえ何年もかかっても。そのことが徳を積むことになるのです。そして続けていけば神の力を引き寄せてより叶うようになっていくのです。

 

このような考え方は日本独自のもので、他の国や人種ではありません。似たような考え方はありますが、ここまでのものはありません。なぜこのような考え方が日本だけにあるのか、それは日本が神とのつながりが強い国だからです。八百万の神々がいるとされるように、日本は他の国では考えられないほどの神々が存在しているのです。神一人一人に名があり、そしてそれぞれの御役目があって祀られているのです。古事記に登場する神様だけでもおよそ300ほどになります。さらに地方の氏神様や山の神様、そして各時代の偉人や歴代の天皇なども神として崇められています。それらすべてを合わせれば1000ほどになるでしょう。これほどの神々を祀る国や人種はありません。そこには日本独自の宗教観や神に対する考え方があるからです。

 

日本は古来から霊に対する考え方があり、人は死んだら体から霊が離れてあの世にいくと考えられてきました。それは仏教が伝来する前からのもので、縄文時代からそのように考えられていたようです。縄文土器は食べ物を入れたり神への供え物を入れるのに使われたと言われていますが、実は亡くなった人の霊を入れるための器だったのです。つまり、人は亡くなると体から霊が離れるので、その霊がどこかへ行ってしまわないようにするために土器の中に入れておいたのです。初期の縄文土器は確かに食べ物を入れたり、煮たりするのに使われていましたが、中期から後期にかけては複雑な形になりとても日常品として使われたとは思えません。特にまるで樹木の株のような形をしているのは、霊が土器から逃げないようにしてあるのです。また、縄文の名の由来は土器の表面に縄の模様がほどこされているところからきているのですが、この縄の模様は現在のしめ縄を現わしているのです。しめ縄はいわゆる結界です。神様が神社などからどこかへ行ってしまわないようにするためのものであり、また、神社に邪悪なものが入り込まないようにするためのバリアの役目も果たしているのです。つまり、縄の模様はしめ縄であり、霊がどこかへ行ってしまわないように封印しているのです。

 

霊とは魂であり、魂はいずれ神となると信じていたのです。すべての人の魂がいずれは神となると信じていたので、土器に入れてその時を待っていたのです。魂が神に替わると土器はこわれて粉々になると信じられていたようです。その粉々になった場所を神がいるところとして祀るようになったのです。そして、その神となった人の名前や功績を元に神の名前が付けられていったのです。そのことが今の時代まで脈々と受け継がれているのです。人は神なり、それが日本の神に対する考え方なのです。

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