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新時代通信No119【日本の神々11】

22年02月08日

この通信は「日本の神々」についてお伝えします。現津神のなかでも、とてもユニークな神様がいます。オオトシノカミ(大歳神)やウカノミタマノカミ(宇迦之御霊神)、アシナヅチノミコト(足名椎命)やテナヅチノミコト(手名椎命)などです。特にオオトシノカミはお正月にやってくる神とされ、門松をお供えして迎え入れているのです。

 

門松を正月に飾る風習はいろいろな説がありますが、その年の初めに年神様を向かい入れるためのものなのです。年神様は1年ごとに代わるとされ、新しい年の神様が迷わないように目印となる松を玄関に飾ることが起源とされています。年神様はそうなると複数いることになるのですが、じつは毎年同じ神様なのです。ただ、年の終わりに一度神界にお戻りになられて休まれてから年始めに戻ってくるのです。そのような考えに基づいて門松が飾られるようになったのです。年神様とされているオオトシノカミは、実はそのようなことをする神ではなく、人々に多くの知恵を授ける神なのです。知恵とは生きていくための知恵、食べ物の保存の仕方や調理法、ケガの治し方や薬草の使い方、家の建て方や衣服の作り方など、さまざまな知恵を授けてくれるのです。なぜなら、この神様もムーの民の魂によってできたのですが、実は多くの魂が集まってできたのです。つまり、ムーの時代のそれぞれの職人のエキスパートの魂が集まってできた神なのです。したがって、多くの知恵を授けることができるのです。

 

この神様はある意味で人々の生活に根付いた神様なので、少しずつ年神様として受けいれるようになっていったのでしょう。大とはたくさんと言う意味であり、歳はトシではなく知識なのです。チシキは年と共に増えていきます。つまり年の功と言う意味なのです。多くの知識を持ち合わせた神なのです。ウカノミタマノカミも多くのムーの民の魂からできています。一般的には稲荷神社の神とされていますが、稲荷神社は大陸からやってきた人たちが祀った神で、日本古来の神ではないのです。稲荷神社にはキツネが祀ってありますが、キツネはとても賢い動物なので、その賢さにあやかっているのです。しかし、キツネはとても用心深いのでそのことからずる賢い動物だとも言われています。キツネも生きていくために人を惑わすのです。そのため、キツネは昔から人をそそのかす動物だと言われてきました。それは人間側から見たことで、キツネは生きていくために知恵を使っているのです。

 

この神様は稲荷神社と関係はありません。ウは嬉しいのウ、カは哀しいのカ、つまり人の喜怒哀楽を育てる神様なのです。人の御霊、つまり魂がさまざまな感情を体験することで、成長をいざなう神なのです。人はいろいろなことを体験するために生まれてきたので、嬉しいことだけでなく、苦しいことや悲しいこと、辛いことも経験するのです。その時に、一つの感情にとらわれ過ぎないように支えてくれるのがこの神様なのです。神社は本来、感謝を伝えに行く場であることがおわかりになったでしょうか。さまざまな神様が私たちを守ってくれているのです。だから感謝を伝えに行くのです。ご利益をお願いに行く場ではないのです。近年、ますますご利益をあおるようになってきた神社仏閣は、これからすたれていくでしょう。

 

アシナヅチノミコトとテナヅチノミコトはスサノオノミコトの妻であるクシナダヒメノカミの両親となっていますが、これもでたらめです。この神々は足と手が名にあるように、手足にまつわる神様なのです。つまり、手足を守る神なのです。体の中でも、生きていくためには手足はとても重要なもので、手足がケガや病気にならないように守ってくれる神様なのです。名は無い、ヅチ(椎)はヅが辛い状態で、チが治で治すなのです。つまり、手足のケガや病気を治す神様なのです。大昔の人はそれを知っていたので、手足にケガをしたり病気になった時はこの神様に治していただくように祈願したのです。それが本当のこの神様のお役目なのです。

 

どうしてこれほどまでに古事記の内容がでたらめになってしまったのか、すでにお伝えしているように大陸からやってきは王族の血筋が、日本古来の神々の末裔であることをこじつけるために作られたのが古事記と日本書紀なのです。前者は国内向けに、後者は中国向けに作られました。特に国内向けの古事記は、その信ぴょう性を高めるために、日本古来の神々を多く登場させたのです。しかし、あまりにも数が多いのでその扱いが雑になり、適当になってしまったのです。一つ一つの神様の御役目や素性がなおざりになってしまったのです。その後、その誤った神様の御役目や素性がさらに拡大解釈されて、やれ何々にご利益があるとか、何々の元を創られた神様だとか勝手にこじつけていったのです。お酒を最初に創られた神様だとか、商売繁盛の神様、子宝を授けてくれる神様、良縁を授けてくれる神様、祈願成就を叶えてくれる神様などいろいろありますが、その多くは後世の人たちが勝手に仕立て上げたものなのです。

 

さらに、宝くじが当たる神様、受験の神様、交通安全の神様、家内安全の神様、さらにはお金を増やしてくれる神様などいろいろありますが、そのほとんどは人が勝手に作り上げたもので、そのようなことをしてくれる神はいないのです。ただ、時々そのようなお願い事が叶うことがあるので、うわさがうわさを呼んでいるだけのことなのです。さらに、宮司や僧侶がそのうわさに火を付けるようにけしかけているだけのことなのです。そのような願いを聞き入れてくれる神様はいませんが、神様の振りをした邪神や動物霊が待ち構えているので、用心した方がよいでしょう。これらの存在は神の振りして人をだまし、最終的には自滅させて喜んでいるのです。そのような邪神や動物霊のいる所には、多くの人が集まるものです。

 

多くの神社仏閣には今、神仏はいつもいるわけではないのです。ほとんどいないと思ってください。なぜなら、我欲を持つ人ばかりがやってくるからです。心から人のために祈る人はごくわずかで、多くは自分の私利私欲を求めてやってくるのです。そのため、神仏はあきれ返って神界や仏界に上られているのです。しかし、人のことを心から思って祈る人が来た時だけは、降りてくるのです。神仏が降りてみえる時は、まばゆいばかりの光がさすのです。それは肉眼よりも写真で撮った方がよくわかるのです。人の目ではその光の波長を認識することができないからです。神社仏閣に行って心から人のことを祈った時は、拝殿や仏様の前で写真を撮ってみるとよいでしょう。まばゆいばかりの光がさしていれば、神仏が降りてくださっているのです。

 

多くの神仏はちゃんと人の心を見透かしています。いくらきれいごとを並べて祈っても、本当に心がこもっているのか、己の私利私欲ではなく人のためなのか、さらには神仏を心から信じているのかを見ているのです。心の中を。したがて、多くの宮司や僧侶もやはりその心内を見抜かれているのです。残念ながらその多くは心から神仏を信じてはいないのです。

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