ムー大陸が沈んだ頃、日本列島にはすでに縄文人が住んでいました。縄文人はおよそ50000年前にプレアデスの宇宙人が、アンドロメダ銀河のある惑星に住んでいた人類とほぼ同じ人たちを移住させたのです。この惑星は寿命が尽きようとしていたので、地球で暮らすようにさせたのです。およそ10万人が巨大宇宙船で移住したのです。
プレアデスの宇宙人はなせ、縄文人を日本列島に移住させたのか、この頃、日本列島はムーの民が去ってから、大陸から多くの人が移住してきました。しかし、幾度も争いをくり返して、荒廃していたのです。スメラミコトの教えに耳を傾けることもなく、権力争いが続いていたのです。そこでプレアデスの宇宙人は、富士山や阿蘇山を噴火させて、おろかな民を一掃したのです。そこで、スメラミコトを中心とした社会を再度創るために、遠い惑星から縄文人を連れてきたのです。縄文人は長い旅の途中で、プレアデスの宇宙人によって遺伝子を組み替えられ、平和で自然と共存する生き方をするようになったのです。縄文人はおよそ35000年の間、原始的ではありましたが、平和に暮らしていたのです。
15000年前にムー大陸が沈んだ時、一部のムーの民は日本列島に避難したのです。その人たちの多くが神官や巫女だったのです。アトランティスの攻撃に対して、人工地震を引き起こそうとした強硬派を諫めてきた人たちの多くが神官や巫女だったのです。彼らは神からのメッセージを受け取っていて、強硬派を懸命に諫めたのですが、受け入れられなかったため、神からムー大陸もともに沈むことをあらかじめ聞かされていたのです。およそ1万人のムーの民が日本列島に避難してきたのです。ムー大陸が沈んだ時には大津波が発生し、船に乗っていた人々は命からがら日本列島にたどり着いたのです。その多くが岐阜の高山にたどり着き、波は引いていったのです。船が山で止まったことから、この地をヤマトと呼ぶようになったのです。この大津波で多くの縄文人も亡くなったのですが、高山のスメラミコトの下で、縄文人とムーの民がともに暮らすようになったのです。
ムーの民は、縄文人にさまざまなことを教えていきました。狩猟の仕方や、家の建て方、土器の作り方やヒスイの見つけ方と加工の仕方を。さらには、病気の治し方やクリの栽培法なども。このことで縄文人の人口はじょじょに増えていき、日本列島全域に広まっていったのです。ムーの民は高度に発達したため、繁殖能力が低下してしまい、絶滅してしまったのです。縄文人にとっては、ムーの民は神のような存在だったので、亡くなったあとはパワースポットに祀るようになったのです。そのことでムーの民の魂は神格化していき、日本古来の神となっていったのです。代表的な神のほとんどが、ムーの民の魂なのです。したがって、古事記や日本書紀に書かれていることはほとんどがでたらめなのです。日本古来の神々は、人々を正しい道に導くことを役目としているので、ご利益を与えるために存在しているのではないのです。そのことを多くの人が知らないでいるのです。日本古来の神々の本当の御役については、また改めてお伝えすることになります。ムーの民が縄文人をより発展させていったのです。
現在の考古学では、およそ15000年ほど前から縄文文明が栄えるようになったとされています。まさに、ムーの民がさまざまなことを縄文人に教え始めた時なのです。縄文の由来は、土器に縄の模様が多く焼き入れられているところから名づけられたのですが、なぜ縄の模様を付けたのか、縄の模様を入れることで土器の強度が増し、さらに表面積が増えることで保温性が向上したのです。食べ物を煮たりしたあと、冷えにくくさせるためだったのです。土器が普及したことで、食糧の保存ができるようになり、さらに煮たり焼いたりすることができるようになって、食べ物が容易に確保できるようになったのです。当時は狩猟や採取が主流だったので、クリやドングリ、トチノミなどを貯蔵することにも使われたのです。およそ10000年の間、縄文人は比較的平和に暮らしていたのです。
およそ4000年から3000年ぐらい前から、大陸から多くの人が日本列島に移住するようになっていきました。いわゆる弥生人と呼ばれる人たちです。弥生人の多くは朝鮮半島を経由してやってきたのですが、その多くは中国系の人々で、厳しい税の取り立てに苦しんだ人々が、新天地を求めてやってきたのです。彼らはすでに稲作をしていて、さらに鉄からさまざまな道具を作り出す技術を持っていたのです。彼らは縄文人が住んでいた居住地を力ずくでうばい取り、時には虐殺していったのです。縄文人は争うことはしなかったので、住み慣れた土地を手放して、北と南に移り住むようになっていったのです。その末裔がアイヌの人と、沖縄の人たちなのです。東北などで発見された三内丸山遺跡などは、縄文時代の後期となるのです。
弥生人はその後、日本の本州全域に住むようになり、稲作を定着させていったのです。しかし、勢力争いが高まり、幾度も激しい戦争が行われるようになりました。およそ2600年ほど前に、朝鮮半島から勢力争いに敗れた王族が出雲地方に移住して、弥生人を制圧していったのです。この王族がいわゆる大国主命のモデルとなったのです。さらに、朝鮮半島からの移住者が増えていき、九州や近畿地方に定住してその勢力を拡大していったのです。卑弥呼はその頃の領主のことを言い表していた称号で、特定の人を言っていたわけではないのです。今で言うならば市長のようなもので、卑弥呼を名乗る人は何人もいたのです。卑弥呼は当て字で、ヒは身分が高いことを意味し、ミは民を束ねる人を意味しています。コはそのトップを意味しているのです。当時の朝鮮で使われていた言葉が由来しているのです。
弥生時代は1800年ほど前には終焉し、古墳時代が始まります。弥生人は中国系の人たちが主流でしたが、古墳時代からは朝鮮系の人々が主流となり、それが平安時代まで続くのです。鎌倉時代はから武家社会となりますが、その多くは中国の北方民族が源流となっています。いわゆる騎馬民族です。彼らも2000年ほど前から移住してきたのですが、朝鮮系の人々にある意味で支配されていたのです。しかし、少しずつ武力を高め、政略を画策するようになっていき、朝鮮系の人々を排除していったのです。そして明治維新によって武家社会は終わり、朝鮮系の人たちがまたその勢力を拡大するようになったのです。薩長はヨーロッパの影の支配者であるイルミナティと手を組んで、富国強兵を押し進めてアジアを征服しよとしたのです。しかし、あまりにも無鉄砲な戦略をしたために、イルミナティに見限られて破滅の一途を進んだのです。そして戦後、アメリカの植民地的な状態となり搾取されてきたのです。それは今も続いているのです。これが日本の真の歴史なのです。これから、この長い歴史をそれぞれの年代ごとに深く掘り下げてお伝えしていきます。今まで公にされてこなかったことが、初めて公開されるのです。真実をしっかりと受け止めてください。