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真日本史伝

真日本史伝No18【大陸の影響】

25年06月11日

3000年ほど前から、日本列島には大陸から多くの人がやってくるようになりました。
いわゆる弥生人が移住するようになったのです。
それまではおよそ5万年の間、縄文人が平和に暮らしていたのです。
弥生人は主に中国系と朝鮮系があって、九州や西日本に定住していったのです。
特に出雲地方と京都丹波地方に。

 

3000年ほど前は、中国も朝鮮も戦が続いていて、多くの人が国を追われて新たな移住先を求めていたのです。
出雲や丹波は朝鮮半島から船で簡単に渡ることができたので、多くの人が移住してきたのです。
彼らはすでに青銅製品を作ることができ、稲作もしていたので十分な土地があれば暮らすことができたのです。
大陸から移住してきた人たちは縄文人が暮らしていた土地をうばい取り、時には殺していったのです。
縄文人は平和主義だったので、戦うことはなく住み慣れた土地から去っていったのです。
出雲地方には朝鮮系の人たちが、丹波地方には中国系の人たちがそれぞれに集落を作り、一つの国のような形態を成していったのです。

 

2500年ほど前になると、また新たに朝鮮半島から多くの人が移住してきたのです。
やはり戦に敗れた人たちなのですが、なかにはそれなりの身分の高い人もいて、いわゆる王族が一族ごと移住してきたのです。
中国では戦国時代でもあったので、戦に敗れた王族が朝鮮半島を経由して移住してきたのです。
すでに高度な文明を持っていたため、青銅製の武器によって出雲地方を侵略していったのです。
それまで住んでいた朝鮮系の人たちは、命からがら逃れて九州や広島に移住するようになったのです。
一部は山口にも移住したのです。
古事記に登場する大国主命による国譲りのお話は、このことをモチーフにしているのです。
譲ったのではなく、侵略されたのです。

 

2000年ほど前になると、今度は朝鮮半島の王族が戦に敗れて王族が一族を引き連れて移住してきたのです。
一つは九州に、もう一つは丹波に、そしてもう一つが出雲に入り、すんでに住んでいた人たちを侵略していったのです。
このようにして九州から西日本にかけては、何度も朝鮮半島から中国系や朝鮮系の人たちが移住してきて、侵略をくり返しながらそれぞれに小さな国を作っていったのです。
多くの縄文人も殺されて、東へ移住していったのです。
一部は沖縄などの島々に移住していったのです。
このような時代背景が古事記で登場するスサノオノミコトやオオクニヌシノミコトが活躍した出雲系の神や、アマテラスノカミの孫であるニニギノミコトが天孫降臨した日向系の神として描かれているのです。
したがって、古事記や日本書紀の内容は、日本古来の神々の名を借りて、朝鮮系や中国系の移住者たちの武勇伝を書き表しているのです。

 

この頃、中国の秦の始皇帝の特命で派遣された徐福が日本列島にやってきて、丹波から京都に移り、定住するようになったのです。
およそ3000人の技能集団が京都の伝統工芸の基礎を作ったのです。
そして、その子孫が公家となって、皇室を裏で操るようになったのです。

 

いわゆる弥生時代は3000年ほど前から、朝鮮半島から移住してきた人たちが少しずつ日本列島に定着するようになり、それまで長い間暮らしてきた縄文人を侵略し、そして殺害して東へと追いやっていったのです。
一部の縄文人は南へと逃れていったのです。
したがって、二つの文明が共存していたのですが、じょじょに大陸系の人たちの文明が縄文人の文明を凌駕するようになっていったのです。
やがて、1800年前頃からいわゆる古墳時代が始まるのですが、実はさらに500年ほど前から古墳は作られていたのです。
朝鮮系の王族の子孫の権力を象徴するために作られたのですが、当時は朝鮮半島との交流があって、さまざまな文化や技術を取り入れていたのです。
それらはさらに中国から伝えられたもので、当時の権力者はその文化や技術を懸命に取り入れたのです。

 

歴代の天皇の御墓として巨大な古墳が作られるようになったのは、朝鮮系の王族の子孫が日本を一つの国として統治しようと試み始めたためなのです。
それまでは、縄文人が個々に小さな集落を形成して、平和に自然と共存していたのですが、大陸からの移住者はどんどん増えていき、土地を奪い合うようになり争うようになってきました。
その結果、より強い者が他の人たちを支配していくようになり、最終的には日本列島を統治することを目指すようになったのです。
そのためには強い武力を手に入れ、そして権力を誇示するために巨大な古墳を作るようになったのです。
そして、日本列島の統治者にふさわしい称号として天皇を名乗るようになったのです。

 

当時は、すでにスメラミコトが存在していることは知られていたのですが、実際に人と接することはあまりなかったため、それを逆手にとって自分こそが天皇であることを知らしめるようになったのです。
その宣伝のために巨大な古墳を作るようになったのです。
歴代の天皇の古墳が前方後円墳となっているのは、ある意味で人の魂を形どっているのです。
つまり、肉体は滅びても魂は生き続けてその地を守り続けることを現わしているのです。
多くの古墳の内部は一般公開されていません。
なぜなら、内部には朝鮮とのつながりが明確となる壁画や石棺があるからです。
さらに、当時の天皇が朝鮮由来であることもわかってしまうような作りになっているため、一般公開できないのです。
壁画に描かれている衣装や文字が明らかに朝鮮系のものだからです。

 

古墳時代がおよそ500年ほど続いて、西日本を中心に一つの国家の基礎が作られていったのです。
当時の各地域の豪族を卑弥呼と呼んでいました。
この名称は中国の「魏志倭人伝」に記載されていますが、特定の人物を指していたのではなく、いくつかの豪族の総称として言っていたのです。
当時は、およそ13個の豪族がいて、それぞれが卑弥呼であり、邪馬台国であったのです。
その中の一つが天皇を名乗るようになり、統一していったのです。
初代天皇とされる神武天皇は、元は卑弥呼でもあったのです。
そのことを払しょくするために古事記や日本書紀が後年作られたのです。
したがって、スメラミコトとは直接関係ないのです。

 

古墳は現在も調査をされていますが、一般公開できるものは一部で、おそらく公開されることはないでしょう。
朝鮮と日本の関係ははるか昔から深い関係にあるのです。
それは今も続いていますが、いずれ明白になっていくでしょう。
旧世界統一教会、創価学会、ワールドメイトなどの新興宗教や、政治家の多くは朝鮮系の人が多く、支配欲や権力欲が強いので、さまざまな形で人々を支配してきたのです。
2000年以上も前から続いてきたことにそろそろ終止符を打つ時がきたのです。

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