西暦600年頃から700年頃までを飛鳥時代と呼んでいます。それまでの古墳時代とのちがいは、ある意味での豪族共同体から、天皇を中心にした一つの国を形作っていったのです。その立役者となったのが物部氏と蘇我氏、そして聖徳太子なのです。この三人も朝鮮の王族の子孫なのですが、それぞれ異なる王族の出なのです。
古墳時代は有力な豪族による合議制によって、いろいろなことが話し合われて決めていました。しかし、さまざまな利害関係がからんで、なかなか話し合いがまとまらないことが多くなり、時には争うことにもなったのです。そこで、軍事面で優れていた物部氏と、財政面で優れていた蘇我氏が手を組んで、朝鮮の王族の血を濃く引き継いでいる一族を祭り上げて他の豪族をまとめようとしたのです。当時は、朝鮮との関係が重要だったので、朝鮮との血縁関係が濃い一族を選んだのです。その一族を天皇と呼ぶようになったのです。
当初は、物部氏と蘇我氏はそれぞれの役目を果たすことでうまくいっていたのですが、しだいに権力闘争が悪化して、仏教の普及に関してもめるようになり、最終的には武力で蘇我氏が物部氏を倒すことになったのです。これがいわゆる「丁未の乱」なのです。その後、蘇我氏は推古天皇を祭り上げて影の権力者となって、政権を牛耳るようになったのです。これが飛鳥時代のスタートとなるのです。学校の教科書では、このようなことが一通り書いてあります。しかし、実際は権力争いが横行していて、当時の天皇は名ばかりで、蘇我氏以外にも強い力を持っている豪族がたくさんいたのです。そこで、それらの豪族を少しでも手なずけるために、「憲法十七条」を推古天皇の甥になる聖徳太子に作らせたのです。ある意味で、法によって縛り付けようとしたのです。しかし、なかなかうまくいかず、豪族が政治に口出しできないようにするため、広く有能な人材を採用できるように「冠位十二階位」を定めたのです。
さまざまな改革によって天皇を中心とする体制が整っていったのですが、天皇を影で操っている蘇我氏の力はますます強くなり、その横暴さは目に余る状態となっていったのです。そこで後の天智天皇となる中大兄皇子と中臣鎌足が手を組んで、蘇我蝦夷と入鹿親子を暗殺したのです。これがいわゆる「大化の改新」のスタートとなるのです。全国の民や土地を国が一括管理して、そこに税金を課そうとしたのです。それまでは、各豪族から税を徴収していたのですが、納める額もバラバラで安定していなかったため、天皇の地位も不安定だったのです。安定した財源を得るためには、豪族の力を削がなければならなかったのです。そしてその一番の目の上のたん瘤が蘇我氏だったのです。
ちなみに中大兄皇子を補佐した中臣鎌足はその後も、天智天皇(中大兄皇子)を補佐していったので、藤原の姓をいただいたのです。藤原家は代々、天皇を支える摂政の役職に就くようになり、平安時代にはその栄華を築くようになったのです。結局は蘇我氏と同じようなことをするようになり、最終的には平家によって滅ぼされたのです。
西暦663年、当時日本は朝鮮の百済と交流を深めていました。天皇の先祖は百済の出身だったからです。朝鮮半島では新羅と中国の唐が連携して百済を攻めようとしていました。そこで百済は日本に援軍を要請してきたのです。多くの兵が船に乗って百済を救援しようとしたのですが、圧倒的な兵力の差によって完敗したのです。その時の戦いを「白村江の戦」と呼んでいます。その後日本は唐からの侵略を恐れて、九州北部に城を築き、全国各地から兵を集めて過酷な警備任務に当たらせたのです。この警備任務に当たった人を防人と言い、その多くは東国から徴収されたのです。当時は旅費もすべて自腹で、任期も数年から十数年だったので、不満を持つ人が多くいたのです。
白村江の戦が一段落下したところで、中大兄皇子は天智天皇に即位しましたが、4年後に亡くなって皇位継承をめぐって対立が起こるようになったのです。息子の大友皇子と弟の大海人皇子の家督争いが「壬申の乱」なのです。天智天皇は我が子に家督を譲りたかったのですが、この皇子は下女に産ませた子だったので、通常は家督を継ぐことはできなかったのです。それを無理強いしようとしたため、弟の皇子が反旗を翻したのです。それまでの天智天皇の横暴な振る舞いに、多くの豪族が不満を抱えていたため、大規模な戦となりました。この戦によって有力な豪族も滅ぼされたので、天武天皇となった弟はより天皇の力を高めることができるようになったのです。
「大化の改新」から数十年かけて、天皇を中心とする中央集権国家が築かれていったのです。その集大成となったのが「大宝律令」なのです。天皇を頂点にして、さまざまな法律や刑法を定めて、天皇の権力を維持できるようにしたのです。今の憲法は国民のためにあるのですが、この律令は天皇のために作られたのです。税を幅広く徴収するシステムや、行政を円滑に行うことができるようにさせたのです。その結果、天皇は安穏と暮らせるようになったのです。まさに法律によって多くの民を支配することができるようになったのです。
天武天皇が亡くなるとその妻が持統天皇として即位し、さらに孫である文武天皇が継承して「大宝律令」を発布したのです。この頃までを飛鳥時代と呼んでいます。現在の奈良県明日香村を中心に栄えたところから、飛鳥時代と呼んでいるのです。なぜ、飛鳥を「あすか」と言うのか、当時は博識のある人は漢文を使っていたのですが、発音の仕方が現在とはかなり異なっていました。通常の会話は、現在に近いものだったのですが、漢字の読み方が朝鮮由来によるものが多かったのです。つまり、朝鮮なまりの発音が多かったのです。飛鳥は元々地名を表していたのですが、飛は当時の朝鮮なまりで「アッス」と言い、鳥は「グァ」と言っていたのです。つまり、「アッスグァ」と言っていたのです。それが「アスカ」と言われるようになったのです。このような読み方は他にもいろいろあしまりす。指宿(いぶすき)、太秦(うずまさ)、地車(だんじり)、押忍(おっす)など身近にたくさんあるのです。
飛鳥時代は天皇による国家体制を強固にする時代でもありました。それまでの豪族による共同体制から脱却したのです。そのことで、一部の権力者が多くの人たちを支配していく形ができたのです。それはある意味で現在も引き継がれているのです。現在の憲法は国民のために作られたとお伝えしましたが、それは建前であって、やはり一部の政治家が国民を支配するためのものであるのです。特にさまざまな課税によって、国民から搾取しているのです。今も昔も変わらないのです。