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真日本史伝

真日本史伝No20【奈良時代】

25年06月16日

奈良時代は西暦710年に都が平城京に移ってから、794年に平安京に移るまでの約85年続いた時代のことを言います。
飛鳥時代に確立された天皇を頂点とする国が、その形をより強固にするための時代でもあったのです。
しかし、天皇に使える人たちの権力争いが顕著化し、多くの人が争いに巻き込まれていきました。

 

飛鳥時代に作られた「大宝律令」に深くかかわっていた藤原不比等は、天皇と深くかかわるようになり、4代の天皇に使えました。
天皇の信頼を勝ち取ることで、自分の娘を42代文武天皇の妻とさせたのです。
そのことで宮廷内で絶大な力を持つようになったのです。
不比等の父親は中臣鎌足で、蘇我氏を打つ倒した功績から「藤原」の姓を与えられたのです。
さらに、不比等の4人の息子も宮廷内で強い力を持つようになりました。
しかし、720年に藤原不比等が亡くなると、皇族の出身者の長屋王が政治の実権を握るようになったのです。

 

724年に即位した45代聖武天皇は文武天皇の子どもで、その母親は不比等の娘だったので、その兄弟である藤原4兄弟が力を盛り返そうとしたのです。
聖武天皇も不比等の娘と結婚をしたので、その子どもを次期天皇に仕立て上げようと画策をしたのです。
しかし、当時の天皇は、父も母も皇族で、その両家から天皇家の血筋を引くことが天皇たる資質の一つだと考えられていたため、父親からしか天皇家の血を引き継いでいない聖武天皇には、その資格があるのかと疑問視されていたのです。
さらにその子どもであればなおさらなのです。
逆に、長屋王は、能力、血筋の両方の点で次期天皇にふさわしい人物であると言う意見が多くなってきたため、藤原4兄弟は長屋王を罠にかけて自害させてしまったのです。

 

その後、藤原4兄弟が実権を握るようになったのですが、730代に入ると天然痘が流行し、737年に4人全員が亡くなってしまったのです。
当時、遣唐使が盛んに派遣されていたのですが、おそらく遣唐使が持ち込んで来たようです。
その後、新たに政権を担ったのが橘諸兄という人物でした。
天然痘によって朝廷内も藤原4兄弟のほかにも多くの大物たちが亡くなったので、遣唐使として派遣されて帰国した優秀な人材2名を朝廷の要職に登用したのです。
それが学者の吉備真備と僧侶の玄昉でした。
唐の知識に精通し、卓越した能力を持っていたため、橘諸兄はこの二人とともに聖武天皇を支える形で政治が行われたのです。

 

しかし、聖武天皇は精神的に弱いところがあって、何度も遷都を行い、最終的には仏にすがるようになり、全国にお寺を建立させて仏の加護を得ようとしたのです。
これが「国分寺建立の詔」で、741年に発令されたのです。
さらに、仏の加護を得られるようにと、743年に「大仏造立の詔」を発令し、753年に完成して、現在は東大寺に安置されているのです。
この天皇は仏教を信仰していたのではなく当時、伝染病の流行や冷害による飢饉によって多くの人が苦しんでいたため、人々が暴動や反乱を起こさないようにするため、仏を信仰させることで矛先をかわそうとしたのです。
大仏はまさにその象徴でもあったのです。
しかし、大仏を作るために大量の銅や錫、そして水銀が使われたので、多くの人が中毒になって死んだのです。
西暦749年、聖武天皇は体調を崩して、新しい天皇に皇位を譲ろうとしたのですが、男子の子どもがいなかったので、つなぎ役として娘を孝謙天皇として即位させたのです。
この天皇の母親は藤原不比等の娘だったので、藤原氏がまたその勢力を拡大させるために、さまざまな画策をしていったのです。
この天皇の従弟である藤原仲麻呂が、政治の実権を握るようになって、橘氏はしだいにその影響力を失っていったのです。
758年、仲麻呂は淳仁天皇を即位させて、裏から操ることで絶大な権力を手に入れるようになりました。
しかし、仲麻呂にとっては叔母になり、孝謙上皇の母であった藤原光明子が亡くなったことで、その力は少しずつ弱まっていきました。
その結果、孝謙上皇が好き勝手な振る舞いをするようになり、僧侶の道鏡を抱え込むようになってしまうのです。

 

孝謙上皇と道鏡は、政治に口を出すようになってきたため、淳仁天皇と藤原仲麻呂はこの二人を排除しようと挙兵したのですが、返り討ちにあって敗北してしまったのです。
その後、孝謙上皇は称徳天皇となり、道鏡が補佐する形で政治の実権を握るようになったのです。
道鏡はしだいに自分が天皇になって、天下を掌握しようと画策したのですが、朝廷に阻止されて未遂となりました。
その後、称徳天皇が亡くなると、道鏡は失脚して追放されたのです。
その後、皇位継承をめぐる熾烈な争いがいろいろ行われて、多くの皇族が暗殺されたり、追放されたのです。
天皇とは名ばかりで、権力に群がる烏合の衆でもあったのです。

 

結果的に、蘇我氏を打ち取った中大兄皇子こと、天智天皇の血を引く光仁天皇が即位して、朝廷の立て直しを行ったのです。
道鏡によって政治が腐敗し、先の聖武天皇の遷都や大仏造立によって国家財政はかなり悪化していたため、早急な立て直しが求められていたのです。
光仁天皇が亡くなると、その息子の桓武天皇が即位し、さらなる立て直しを行っていきました。
当時は仏教が盛んに取り入れられていたため、僧侶が政治に口出しすることが多くなっていました。
そこで、桓武天皇は平城京を捨てて、長岡京への遷都を行ったのです。
しかし、長岡京は地理的に洪水が多かったため、再度、794年に平安京に遷都することとなったのです。
ここまでが奈良時代となるのです。
そして、平安時代へと受け継がれていくのです。

 

奈良時代は、まさに天皇をいかに裏で操ってその実権を握るかの争奪戦でもあったのです。
通常の教科書では、そのようなことにはほとんど触れてはいません。
しかし、数々の歴史書からは計り知れない陰謀や暗殺、さらには呪縛や呪いがかけられていたのです。
人の我欲と執着がおぞましい行いをさせていたのです。
そのような人たちを神として祀っている神社もありますが、事実をしっかりと認識した上で接していくとよいでしょう。

 

飛鳥時代、奈良時代は天皇制が確立された時代でもあります。
しかし、直接政治を行うのは元は豪族の人たちだったため、熾烈な権力争いがいつも行われていたのです。
そのことに天皇も巻き込まれて、多くの皇族が亡くなっていきました。
また、民から税を徴収する制度も確立されたため、多くの民は税や兵役に苦しめられていたのです。
教科書ではそのことについてはあまり触れていません。
いずれにしても、天皇の権力を強めるために多くの人々が時には苦しめられ、時には殺されていった時代でもあったのです。
このような史実を正確に伝えることがこの史伝の目的でもあるのです。
この後の平安時代も同じようなことが繰り返されていくのです。
一部の特権階級の人たちの栄華を描いた「源氏物語」は、まさにハレンチ極まりない俗書でもあるのです。
それを文化として尊ぶのは、いかがなものかと思います。

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