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真日本史伝

真日本史伝No21【平安時代】

25年06月16日

平安時代は、桓武天皇が平安京に遷都した西暦794年から、源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉で政治を行うようになった1192年までの、およそ400年の期間を指します。長い間にさまざまなことがあったので、この期間を大きく3つに区切ってお伝えします。それぞれをまずは簡単にお伝えします。

 

それまでの飛鳥時代や奈良時代は、天皇を中心にした政治を行うことで、一つの国にしようとしてきました。しかし、さまざまな利害関係がからんで、絶えず争いごとが起こっていました。何人もの天皇が暗殺されたり、殺されてきたのです。そこで、天皇はあくまでも象徴であって、実質的な政治は有能な人が行うようになっていったのです。しかし、それらの人が事実上の天皇となってしまうこともあったため、厳格な秩序を保つために、天皇の元で政治がちゃんと行えるようにすることが大きな課題となったのです。そのために、さまざまな法律を作り、それを徹底させるようにしたのです。それを再スタートさせるために桓武天皇が平安京に遷都したのです。しかし、政治権力をめぐる抗争はやむことはありませんでした。

 

平安時代の前期は、桓武天皇の時代からおよそ100年の間となります。飛鳥時代から政治的な力を持っていた藤原氏が、また台頭してきて、政治の実権を握ろうとしたのです。さまざまな手を使って、天皇の代理役としての地位である摂政や関白なる役職を作り上げ、天皇を裏で操る政治をするようになったのです。これを摂関政治と呼んでいます。その初代摂関が藤原良房で、その後さらに強い権限が与えられた関白の役職も作られたのです。このような政治が確立されるまでが前期となります。

 

中期は、藤原氏による摂関政治が崩壊するまでの150年間となります。この間に遣唐使は廃止となり、日本独自の文化が華開くようになりました。前期では最澄や空海が唐で学んできた仏教を広めたことで、新たな仏教文化が開花したのですが、中期では清少納言や紫式部などの女流作家が台頭してきました。しかし、一般の人々は重税と徴用に苦しんでいたのです。一部の特権階級がその栄華を楽しんでいたのです。

 

後期になると、天皇が次の天皇に皇位を譲った後も、その権力を維持するために上皇となって政治の実権を握ろうとしたのです。これを院政と呼んでいます。この頃から武士が財力で力を付けるようになり、上皇の護衛であった平氏が台頭してきたのです。同じ頃、藤原氏に仕えていた源氏も台頭してきて、互いに政治権力を握るための争いが行われるようになり、平氏がその実権を握るようになったのですが、最終的には源氏に滅ぼされたのです。その立役者が源頼朝なのです。このことが鎌倉時代へとつながっていくのです。

 

このようにして、飛鳥時代から続いてきた天皇や貴族による政治はピリオドを打つこととなり、武士が政治を行うようになっていくのです。これまでの時代が朝廷による統一であり、これから時代は武家による統一となっていくのです。明治の時代まで続く武家の時代こそがある意味で日本国が確立されていくのです。

 

平安時代の前期では、中央集権的な国づくりを目指したはずでしたが、税の取り立てを改めた墾田永年私財法によって私有地を認めることとなったため、地方の貴族や寺院が力を持つようになっていったのです。つまり、荘園の始まりなのです。さらに東北地方や九州地方を占領するために、坂上田村麻呂のような征夷大将軍を派遣して多大な出費を重ねるようになりました。当時、東北地方にはおよそ2000年前に大陸から移住した騎馬民族が住んでいて、戦上手であったためなかなか攻め落とすことができなかったのです。しかし、東北地方を治めていた首長のアルテイは、領民が疲弊するのを恐れて降伏したのです。この時、一部の人たちが朝鮮半島に移住したのです。また、東北地方には多くの縄文人も住んでいて、その多くは北海道に移住したのです。後のアイヌと呼ばれる人たちなのです。

 

第52代嵯峨天皇が即位すると、より天皇の力を高めるために、天皇の子弟を直属の兵にするようになりました。その一つが源氏なのです。平氏もやはりその一つなのです。それぞれの力はしだいに強くなり、後に権力を争うようになるのです。この頃、遣唐使として中国に派遣されていた最澄と空海が帰国して、それぞれの学んだ仏教を広めていきました。最澄は家柄などに関係なくだれでも仏を信仰できるようにと法華経を普及させ、比叡山に天台宗を開きました。その教えは後年いくつかの宗派に分かれて、日本の仏教の礎となったのです。ちなみに、織田信長によって延暦寺は焼き討ちにあったのですが、徳川家康の時代になると庇護されて全国に普及したのです。この時に一役買ったのが、天台宗の僧侶で家康の側近であった天海だったのです。実は天海は明智光秀だったのです。本能寺の変の首謀者とされ、羽柴秀吉に討ち取られたとされていますが、実は信長も光秀も生きていたのです。

 

信長は当時、スペインの宣教師からキリスト教のことをいろいろ学んでいて、かなりの信仰心を持っていました。しかし、日本の統一を確固たるものにするためには、宗教の影響をいかに少なくするかが課題となっていたのです。そこで、キリスト教を普及させることで、それまでの仏教信仰を打ち砕こうとしたのです。そのためにはローマ法王の力を利用する必要性があったため、信長自身がヨーロッパに行くことを計画したのです。しかし、信長が不在となればまた戦乱が悪化することは必然だったので、自分の後継者を明智光秀にしようとしたのです。ただ、他の家臣たちがそれを認めることはしないこともわかっていたため、光秀が謀反を起こして信長を殺したことにすることで、収拾をはかろうとしたのです。つまり、光秀が武力によってその力を他の家臣に見せることで、信長の後継者になることを納得させようとしたのです。しかし、それを事前に知っていた秀吉が阻止して、天下を取ってしまったのです。

 

信長はスペインに渡って、生涯を過ごすことになります。現在も信長の子孫である人たちがスペインに住んでいます。光秀はその後家康の庇護を受けて、仏教を全国に普及させて檀家制度を確立することで、農民を監視する制度を作っていったのです。各地域の住職が檀家の人たちをいつも監視していたのです。そのシステムを光秀こと天海が作り上げたのです。しかし、現在は急速に檀家制度は崩壊しつつあります。

 

空海は密教を普及させていきました。密教は経典を読んでいても本当の仏の教えを得ることはできないので、厳しい修行をすることが大切であることを広めていきました。そのため、一般の人にはあまり普及することはありませんでした。しかし、土木事業や学校の開設にも尽力しました。

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