漢方コラム

お問い合わせ

真日本史伝

真日本史伝No24【室町時代】

25年06月23日

室町時代は西暦1338年に足利尊氏が征夷大将軍となって幕府を開いた時から、織田信長が戦国時代を鎮め、天下を統一するまでのおよそ270年間の時代を指します。前期は朝廷が二つ存在した南北朝時代、後期は各地の守護大名がその勢力を拡大するために、いわゆる下剋上と呼ばれる戦国時代になるのです。

 

室町幕府ができた頃は、後醍醐天皇が鎌倉幕府から政治の実権を取り戻し、さまざまな改革を急速に行い、武士に対する扱いが軽視されたため、不満を持つ武士が足利尊氏と一緒になって、政権を奪回したのです。そのため、朝廷が二つとなり、南北朝時代と呼ばれるようになったのです。後醍醐天皇側の朝廷を南朝、足利尊氏が中心となって作られた朝廷を北朝と言い、およそ60年余り対立が続きました。これを終わらせたのが3代将軍の足利義満で、武家の最高位の征夷大将軍と、公家の最高位である太政大臣を兼務したのです。この頃になると、中国の明との貿易が盛んになり、足利家は莫大な利益を得るようになったのです。その象徴が京都の金閣寺なのです。

 

室町時代も後期になると次期将軍をめぐって権力争いが激しくなり、応仁の乱が勃発したのです。およそ10年もの間、京都で有力大名が争ったのです。多くの大名は京都に住んでいて、自分の領地は家来に任せていたのですが、戦乱が長引くにつれて、大名にとって代わってその領地を自分の物にしようとする傾向が強くなっていったのです。いわゆる下剋上と呼ばれる時代となっていったのです。大名は京都で優雅な生活をしていたのですが、領地を任された家来は税の取り立てや戦に駆り出されたりして、かなり厳しい状況に置かれていたため、不満を募らせるようになっていたのです。そこで、大名が不在のうちに領地を我が物にしようとしたのです。

 

下剋上は全国的に広まるのですが、有名なのが美濃の国、現在の岐阜の大名であった土岐氏の下級武士の斎藤道三が土岐氏に代わって美濃の国を治めるようになったのです。その娘、濃姫が織田信長の妻となり、さらに妹のお市が浅井長政に嫁いで三女を産み、長女の茶々こと淀の方が豊臣秀吉の側室となって秀頼を産み、三女の江は徳川家康の三男の秀忠に嫁いで三代将軍家光の母となります。どうしてこれほどまでに、斎藤家、織田家、豊臣家、そして徳川家が深くかかわっているのか、実はこの四つの一族の先祖は、およそ1800年前に中国から移住してきた貴族だったのです。当時はいわゆる三国時代で、呉の国から避難してきた一族が中部地方に定住し、互いに助け合っていたのです。しかし、時代とともに武力で衝突するようになったのですが、ある面ではつながりを保っていたのです。そのつながりを保つために四つの一族は婚姻関係をいくつもしていったのです。明智光秀もその一つであったのです。

 

徳川家は結果的に、織田信長の血を引き継ぐこととなったのですが、豊臣家が滅びなかったら、やはり信長の血を引き継いでいたのです。いかに因果が深いかを知ることができるのです。

 

室町時代の頃から日本独自の文化が普及していきました。平安時代までは中国の影響が強かったのですが、仮名文字が取り入れられるようになり、さらに武士の力が強くなってきたことが大きな要因となりました。天皇などの皇族や、その周りの貴族の多くは朝鮮や中国の流れを強く引き継いでいる人たちだったため、必然的に中国の文化がある意味でのステータスだったのです。それに拮抗する武士たちは、ある種のコンプレックスがあったため、反公家的な文化を模索するようになったのです。その足掛かりとなったのが、禅宗なのです。それまでは仏教とは異なり、質素でありながら力強さと優美さを追い求めたのです。

 

ちょうどこの頃、ムーの民であった人たちの魂が多く転生するようになったのです。なぜなのか、15000年前に沈んだムー大陸に住んでいた人たちの魂は何度も転生してきたのですが、その多くはさまざまな技能を身に付けていたのですが、その技能が十分に生かせることができなかったのです。そしてやっとその技能を生かせる時がやってきたのです。多くのムーの民の魂が集まってきて、この時代に一斉に転生してきたのです。そのことで、日本独自の文化が開花していったのです。なかでも神社の建築様式は、ムーの時代に使われていたもので、当時の宮大工的な棟梁の魂が神格化して神となり、現在の社の様式を確立させたのです。その神が阿遅鉏高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)なのです。

 

さらに、さまざまな食文化も普及しました。いわゆる味噌や醤油、漬物などの発酵食品が飛躍的に普及していったのです。これもムーの時代に確立されていた技法が再現されたのです。特に、さまざまな漬物はこの時代に確立されたのです。京都の千枚漬け、福井のサバ寿司、奈良漬、梅干し、そしてタクアンなどの原型ができたのです。また、茶道や華道もある程度確立されたのです。日本の多くの文化の基礎がこの時代に作られたのです。それまでは公家や武士が中心だった文化が、一般庶民にも普及し、自由な発想の元で開花していったのです。

 

戦国時代になると、さらに自由な文化が開花していきました。それは鎧兜や刀に繁栄されたのです。特に日本刀はそれまでの直刀から、反りのある形に変わっていったのです。実用性と美術的な面を兼ね備えるようになり、日本刀の原型となったのです。実は、この刀を作る技術もムーの時代に生きていた人の魂が転生して広めたのです。本来刀は戦いに使うのですが、ムーの民は戦うことをしなかったのです、あくまでも美術品として刀を作っていたのです。その技と実用性が融合してできたのが日本刀なのです。

 

茶道も華道も、やはりムーの民がたしなんでいたものなのです。自然と共生していくための手段として、茶道や華道が行われていたのです。一切の我欲や執着を捨て、心を無にするための手段として茶道や華道が使われていたのです。戦国時代では、茶道は戦国武将のステータスとなっていましたが、ある意味での秘密の談合に使われていました。千利休は茶会でさまざまな武将から情報を仕入れて、必要とする情報を高値で売っていたのです。豊臣秀吉にかなりその情報を流していたのですが、秀吉がほかの武将にも秘密を漏らしていないかと疑うようになり、結局は切腹をさせられてしまったのです。利休はそんなことはしていなかったのですが、他の武将たちの嫉妬や妬みを受けるようになり、ある意味ではめられてしまったのです。一商人が、天下人と親しくなりすぎてしまったためなのです。利休亡き後も、茶道はどんどん広がっていったのです。茶道の本質は、自然と一体化することなのです。作法ばかりにこだわる必要はないのです。

ページTOPへ戻る

電話する

お問い合わせ