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新時代通信No297【神の愛3】

21年09月28日

この通信は神の愛についてお伝えしています。神の愛を深めていくと、私たちは何をしていけばよいのかがはっきりとしてきます。私たちは今、自分のことを第一に考えます。当然のことですが、神の愛が無償のものである以上それに見合った行いをしなければなりません。それが神に対する感謝の現し方であり、恩返しでもあるのです。

 

神の愛に対して私たちは何ができるのか、神の無償の愛はとても大きなものです。少しでもその恩返しをすることが人として生まれてきたことの定めでもあります。神様にお願いばかりする昨今、お願いを聞き入れてもらうからにはやはりそれなりのことをするのが当然です。そんなことを考えたことがありますか?神に対しての恩返しはいろいろありますが、やはり一番身近なのは感謝です。本来神社は神に対して感謝を伝えるために行く所です。いつも生かしていただいていることへの感謝を伝え、そして昨日も、または一年間無事にすごさせていただいたことを感謝しに行く所なのです。しかし、今は縁結びだとか金運が上がるだとか、はたまたご都合のよい願い事を聞き入れてくれるだとか、勝手なご利益があると吹聴して人を集めようとしている神社が多くあります。それらの神社の宮司は金儲けのために神の名を利用しているだけなのです。彼らは本当に神様がいるとは信じていません。なぜなら、宮司や神主を育てる学校では神様がいるように振舞えと教えているからです。いるとは教えていないのです。そんな神社に行けば、逆に変な邪気を拾ってくることになるかもしれません。

 

神の愛に対して私たちができることは他にもあります。神が私たちにしてくれている無償の愛を、他の人にしてあげることなのです。神はそれを一番願っているのです。神は別に人から何かをしてもらおうとは思っていません。ただ神の与えた無償の愛に対して、その万分の一でもよいので人にしてほしいだけなのです。ただそれだけなのです。そのことを多くの人が実践していけば、世の中はきっと変わっていくでしょう。そしてそれを積み重ねていけば、さらに神からの無償の愛を受け取ることができるのです。お金もそうです。自分のためだけに使っていけば減るばかりで、ますますがめつくなっていきます。人のために使っていくと、それ以上のものが入ってくるのです。人のために使ってこそ生き金となり、どんどん回っていくのです。それを昔の人は知っていて、生き金を上手に使っていたのです。残念ながら、今はそんな人はほとんどいなくなってしまいました。自分の私利私欲を増やすことに専念しています。いずれは消えてなくなるでしょう。

 

神の愛に対して私たちができる恩返し、それは人を許すことです。人は何度も神を裏切ってきました。裏切るとは、神の愛を踏みにじることです。川や大気を汚染し、放射能をまき散らし、さらには戦争やテロで多くの神の子を死なせているからです。しかし、神はそれでも私たちを許し、絶え間ない愛を降りそそいでくれています。やはりその万分の1でもよいので、人を許してあげることをするのです。特に親子や兄弟、そして友人や同僚を。身近な人ほど許せないものです。身近な人に裏切られることはとても辛いことなので、いつまでも許すことができないのです。少しずつ許していくとよいでしょう。
神の愛についていろいろとお伝えしてきました。愛とは見返りを求めない行いの現われです。私たちは人に対して何かをしてあげる時、知らない間に見返りを求めています。礼の一言がなかった、それなりのお礼はするものだ、これだけやってあげているのに、さらには私の言うことを全然聞かないなど、やればやるほど見返りを求めてしまうのです。それが人であるがゆえのむつかしいところです。迷子の男の子を見つけ出したことで、いちやく有名になったボランティアおじさんの座右の銘が「与えた恩は忘れなさい、受けた恩は忘れてはいけません」、誠に持ってその通りなのです。このことをしっかりと心に刻んでいけば、きっと神様に恩返しができていくでしょう。見返りを求めてしまうのは、それだけ自分が未熟だと思って下さい。年齢は関係ありません。年を取っても求めてしまう人もいれば、小学生でも求めずに純粋に人のためと思ってやる子もいます。返って子供の方が求めないのかもしれません。それだけ心が純粋だからです。

 

私たちは神様の愛をしっかりと受け取って生かされています。そのことをどれだけ自覚できるかが、大きな分かれ道となります。神に対していくら祈りを捧げても、また仏にいくらお経を唱えても、心から神仏を信じていないとそれは絵に描いた餅と同じです。食べることはできません。今多くの宮司や僧侶は、心から神仏の存在を信じていません。すべては形式的にそして神社や寺がいかに存続できるかを考えています。経済的に。そのためお金をいかに調達するかを考えてばかりいるので、神仏から遠ざかっているのです。もちろん心から信じている宮司や僧侶もいます。しかし、それはごくわずかであってそうそういらっしゃるわけではありません。なぜこのようになってしまったのか、明治以降神社仏閣は分離され神道を重んじる風潮になりました。ただ、それまでの神道とは異なり、天皇の崇高性を強調するためのものだったので、神の存在は二の次だったのです。仏教もその頃から傾斜して、葬式などの儀式に専念するようになり、仏の教えを説くことはなくなってきたのです。したがって両者とも神仏からますます遠ざかり、形骸化してしまったのです。

 

そんな状態になることを予見した神界では、幕末の頃から新たな方法によって神仏を信じさせることを始めたのです。それが大本教や黒住教、天理教や金光教の起こりなのです。そしてさらに真光教や創価学会などと続いていったのです。どれも神や仏の啓示を受けていると言われています。確かに始めの教祖となる存在は神仏から啓示を受けています。しかし、その後を継ぐ者たちがその啓示から逸脱し、権力やお金に目がくらむようになり、残念ながら開祖の意向から脱線しているものがほとんどなのです。多くの信者を抱えている宗教ほどその逸脱ぶりははなはだしく、一部のリーダー的人たちが私腹を肥やすために信者からお金を吸い上げているのです。いずれはそのことが明るみに出て、多くの信者が離れていくでしょう。すでにその兆候は現れています。仏教も檀家制度が疲弊して抜け出る人が続出し、墓じまいをする人が後を絶ちません。いずれ多くの寺は、廃業となるでしょう。幕末から始まった新興宗教の乱立も、その役目を終える時がきたのです。

 

神の愛をしっかりと受け止め、そしてそれを周りの人に分け与えていくことが本当の宗教でもあります。そこには教祖も宮司も僧侶も必要ありません。ただ、それを導きまとめていく代表者は必要です。教祖とはちがい、みんなの善意の元に選ばれていくのです。教祖は生涯トップに君臨する者です、代表者はそのつど代わることもあれば、続けることもあります。決して永続的ではないのです。多くの新興宗教がこれほど乱立しているのは、神の存在を心から信じていないからです。神よりも教祖を信じていることに問題があるのです。本来教祖は神の下部にすぎず、絶対的な権力を持ってはいけないのです。神のみが許されるのです。

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