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新時代通信No301【神の思い】

21年10月04日

この通信では神の思いをお伝えします。神の思いとは、神様も人と同じように思いを持っています。いろいろな思いがありますが、一番の思いは人が神の思いをしっかりと受け取ってくれることです。それは人に喜んでもらうことを一番大切にすることです。自分のことは後回しにして、まずは人のことを考えてあげることです。

 

だれでもまずは自分のことを優先します。電車に乗って空いた席があれば座ります。後から乗ってきた高齢者に席を譲ることが求められていますが、なかなかできないものです。しかし、そのちょっとしたことを積み重ねることが神の思いに近づいていくのです。決してむつかしいことでも大変なことでもありません。わかってはいてもなかなかできないことをしていくことが大切なのです。道端のゴミ拾いや公園などの空き缶拾い、信号機をちゃんと守ることや電車やバスの順番待ちなどどれも当たり前のことですが、時々それができないことがあります。その時は自我が強くなっているのです。自我とは自分を優先することです。その思いが強くなると人と争うようになるのです。ささいなことが積み重なると戦争にまで発展するのです。戦争をいくら反対しても戦争はなくなりません。戦争をなくすには、一人一人が自我を小さくするしかないのです。そのことを強く言う人はいません。あまりにも当たり前すぎて、そんなことで戦争がなくなるなんて信じていないからです。

 

日本を美しくする会というものがあります。学校や公共施設のトイレを無償で掃除するのです。それも素手で。カー用品を販売するイエローハットの創設者、鍵山氏が始めた活動です。鍵山氏が商売を始めた頃、高度成長期で人は物とお金に踊らされ自分のことしか考えないような風潮がありました。社員の荒廃した姿を見て、少しでも社員が気持ちよく仕事をしてもらうために社長自らトイレ掃除を始めたのです。やる以上は徹底的にしていきました。さらにだれよりも早く出社して会社の回りの掃除も行い、数年後には1キロ四方まで掃除をするようになりました。最初は掃除しかできない社長だと社員にバカにされていましたが、一人、また一人と手伝う者が現れ、数年後には全社員が自主的に参加するようになりました。その頃から業績は右肩上がりとなり、さらにこの活動に賛同する人が集まって先の会ができたのです。

 

たかがトイレ掃除ですが、一番不浄とされるトイレをそれも素手で徹底的にきれいにするすることで、自分の魂が磨かれていくのです。禅宗の修行の中にもトイレ掃除を大切にするところがあります。魂は見えないし、手に取ることもできません。しかし、一番不浄とされるトイレを掃除することで自我がはがれていくのです。つまり、自分の心の汚い部分をトイレに見立てているのです。見たくない、触れたくないところを直接素手できれいにすることで魂が磨かれていくのです。魂がきれいになると心も澄んできて、自我がなくなっていきます。そうすると人との対応がスムーズになるのです。スムーズなれば商談もまとまりやすくなり、業績が上がっていくのです。これは商売だけではありません。人との関係がスムーズになれば争いごとも戦争も起こらなくなるのです。トイレ掃除が戦争を起こさなくなるようにさせるのです。トイレの神様と言う歌が以前ヒットしました。これもまた同じようなことなのです。日々の積み重ねが神の思いでもあるのです。
神の思いはむつかしいものではありません。多くの宗教では神の思いをとても崇高でむつかしいものだと解釈しています。たしかに見えない存在の思いを推し量ることは何人なりともできないことです。そのため難解になってしまうのです。しかし、神は人にできないことをさせようとしているのではありません。だれでもやろうと思えばすぐできることをさせようとしているだけなのです。それは子供であっても障害を持っている人であっても。すべての人ができることを。それが何なのかを考えることが本当の宗教でもあるのです。神の教えをいくら勉強しても、実践しなければ勉強する価値はないのです。また、神の教えを他の人に一生懸命に教えようとする人もいます。神の教えは言葉で伝えるものではなく、実践して伝えていくものなのです。それを多くの人が履き違えているのです。神の思いは言葉や理屈で表すことはできません。それを表そうとするからむつかしくなるのです。むつかしくなればなるほどさらに勉強ばかりするようになり、実践がおろそかになっていくのです。多くの宗教がそのようなジレンマにはまっているのです。

 

今、多くの人が神に対しての見方を変えつつあります。今までは願い事をするための存在でしかなかったのが、自分が何のために生まれてきたのか、何のために生きていくのかを問う対象に神の存在を求めているのです。つまり、今までは物やお金がたくさんあれば幸せになれると思ってきました。しかし、いくら物が豊富にあっても心が満たされることはありません。あればあるほど心はむなしくなっていくのです。そのことを端的に現わしているのがゴミ屋敷です。最近テレビなどで時々取り上げられるゴミ屋敷、近所の人に迷惑をかけながらもひたすらゴミを家の中に持ち込み、まさしくゴミの中で埋もれて生活をしています。どうしてそこまでするのか、普通では考えられませんが、おそらくゴミを集めることで心のむなしさを埋めようとしているのです。しかし、集めても集めても一向にむなしさを埋めることはできません。集めれば集めるほどむなしくなるのです。ゴミ屋敷とまでもいかなくても、物が家の中に氾濫している人は多くいます。基本的には同じことなのです。心のむなしさを埋めるために神への関心が高まっているのです。

 

心のむなしさはどうして生じるのか、それは幸せが何であるかをわかっていないからです。お金や物がたくさんあることが幸せであると多くの人が思ってきました。しかし、いくらあっても幸せを感じることはできず、今までの考え方に疑問を持つようになってきたのです。その現われが断捨離です。数年前からブームになり、多くの人が実践しています。本当に必要な物を見極め、不要な物を処分することで物に対する執着を少なくしていくのです。物に対する思いが小さくなれば、何が本当に幸せなのかが見えてくるのです。逆に物が多すぎると幸せが見えなくなるのです。なぜなら、本当の幸せは物を持つことではないからです。幸せは物で得られるのではなく、その人の心にあるのです。今、すでに幸せであると思えば幸せなのです。幸せでないと思っているからそれを物で埋めようとするのです。生かされていること、五体満足であること、さらには物が食べられること、当たり前と思っていることに幸せを感じることが必要なのです。考え方だけなのです。そのことにやっと気づき始めた人たちが断捨離を始めているのです。

 

神の思いの一つに、すべての人が幸せであることを感じてほしいのです。もちろんお金や物が豊富にあることもいいのですが、それだけでは本当の幸せを感じることはできません。生かされていることが本当の幸せなのです。多くの人がそのことを感じるようになれば、平和な世の中になっていくでしょう。断捨離は幸せになるための第一歩なのです。

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