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新時代通信No302【神の思い2】

21年10月04日

この通信は神の思いをお伝えしています。神様の思いはいろいろありますが、やはり人が人を思いやることを望んでいるのです。神の子として生まれてきた私たちは、神の子であることを自覚していません。なぜなら、神はとても崇高な存在なので私たちの手には届かないところにいるからと思っているからです。それは単なる思い間違いです。

 

人が神の子であると言うことを説いている宗教はあまりありません。キリスト教では確かに主の子であることを説いていますが、それはキリスト自身のことであって一般の信者は自分のことを神の子だとは思っていません。他の宗教も同じです。神は絶対的な存在であり、人は神の前では子羊でしかないのです。そのように思わされてきたのです。なぜなら神を絶対的な存在にすることで、その神から力を授かったとする一部の人たちが人を支配できるようにするためだからです。宗教は一部の人が多くの人を支配するために作られたものなのです。それははるか昔から行われてきました。しかし、純然たる宗教もあります。ただただ神の存在を信じ、神に感謝を伝えていくものもあります。日本の古神道やネイティブアメリカンの宗教感がそれに相応します。また、宗教を利用して権力者がその権力を強くする場合もあります。古来中国や日本では仏教をその道具として使ってきました。いずれにしても人は神の子であることを認識することが、神の思いでもあるのです。

 

人が神の子である証があります。それは人の魂は神から生まれたのです。魂は目には見えませんがその存在は昔から認められています。しかし、近年は目に見える物しか信じない風潮が強くなってきましたが、それでも霊魂や霊、魂が存在することを信じている人が多くいます。男性の多くは理屈でものを考えるので、目に見えない存在を認めようとはしません。逆に女性の多くは感性でものを考えるので、目に見えない存在を受け入れやすいのです。女性はまた、子供を産み育てるので感性が豊かなのです。神は理屈で考えるものではありません。感性で感じるものなのです。そのことをわかっていないと、いくらむつかしい本を読んでも神のことはわからないのです。いわゆる宗教学者は男性が多いのですが、いくら理屈で考えても神のことはわからないのです。また、キリスト教や仏教でも神学や仏の教えを研究する所がありますが、学問として宗教をとらえてしまうとますますわからなくなるのです。

 

神の思いは学問で理解するものではありません。心で感じるものなのです。そのことをしっかりと自覚しなければなりません。そのためにはむつかしい本や経典ばかりを読んでいてはいけません。それらは人が作ったものであり、神が創ったものではないからです。人が作るとその人の思いが入ってくるので、神の思いを正確に伝えることができなくなるからです。仏教の経典は膨大にあります。釈迦の教えを後世の人が書き写したものですが、書き写されるたびにその人の考えが加えられて少しずつ変わっていくのです。したがって幾万もの人の考え方が生まれて、膨大な数の経典があるのです。聖書も同じです。キリストが伝えたことはさほど多くはなかったはずです。なぜなら、キリスト教はキリストの死後普及したものなので、生前のキリストの教えを受け取った人はわずかであったからです。
神の思いを感じるためには、いつも神のことを考える必要があります。もちろん四六時中というわけにはいけませんが、何か大切なことを言う時や行う時は、神だったらどうするかを考えるのです。我欲にとらわれていないか、相手のことをちゃんと考えているか、自分の思い込みはないかなど冷静にそして謙虚な心になれば、自ずと神の思いに沿うことができるようになるのです。そのことをしっかりと認識することが必要です。一人でも多くの人がそのように実践すれば、争いごともなくなり、平和になっていくのです。しかし、なかなかできないのが現状で、神の思いは簡単なのですがそれが実践できないことが問題なのです。神の思いを実践するためには、まず感情的にならないことです。感情的になるのは自分の我が強いために、自分の思い通りにならないから感情的になるのです。小さな子供がおもちゃ売り場で、気に入ったおもちゃを買ってもらえないと泣きじゃくることと同じなのです。大人であっても本質的には同じなのです。そのことをちゃんと理解していない人が多くいます。年を取っても精神的には大人になりきれていない人が多いのです。

 

神の思いが一番現れるのが、苦しんでいても人のことを思いやれることです。人はさまざまなことで思い苦しみます。人間関係や金銭的なことで。ある意味で、苦しい思いをするために生まれてきたのですが。どんなに苦しくても、いつも人のことを思いやれることが神の思いでもあるのです。今から300年前、江戸時代の中期、関東に伝説の刀鍛冶がいました。どの刀も名刀で、依頼者が多くて数年待ちの状態でした。しかし、納得がいくまで作り直すのでなかなか納期には間に合いませんでした。見かねた妻が少しばかり手を抜くことを助言したのですが、この刀鍛冶は一向に受け入れず毎日寝る暇も惜しんで刀を作りました。そしてとうとう過労で倒れてしまい、刀が作れなくなってしまいました。依頼者からの催促は日増しに強くなり、この刀鍛冶は最後の力を振り絞って作りました。しかし、最後の依頼品が完成するのと同じくして死んでしまいました。その刀は後世名刀と言われ、とても高価な値段で取引されるようになりました。それが名刀政宗の伝統を受け継ぐ者だったのです。

 

この刀鍛冶はどんなに疲れていても、依頼者のために精魂込めて刀を作ったのです。つまり、依頼者のことを第一に考え、自分のことは二の次にしたのです。命までも惜しまずに。これは極論かもしれませんが、それほどに人のためにすることの尊さを知ってほしかったのです。命を削って作り上げた刀は後世に残るものとなったのです。職人としては最高の喜びとなったことでしょう。人のためにどこまでできるかはむつかしいことですが、いざという時に全力でできる勇気を持ちたいものです。神の思いは尽きません。それをどこまで感じ取り、実践していくかが神の子としての役目でもあるのです。神が私たちにしていただいていることの万分の1でもお返しすることができたのなら、神はきっと喜んでくださるでしょう。

 

この通信は決して特定の神や宗教を崇めるためにお伝えしているのではありません。多くの神々とそして多くの宇宙人によって生かされている私たちがそのことをしっかりと認識して、これからやってくる時代の大変動を乗り越えて新しい時代を築いていくためのものなのです。一人でも多くの人がこの通信を読むことで魂が共鳴し、それぞれの今世の役目を覚醒していくはずです。この通信は単なる読み物ではありません。眠っている魂を呼び起こすものなのです。眠っているとは、ムーの時代に生きていた頃の役目でもあります。その時の役目を思い出すことで、これからの新しい時代をどのように築いていくかがわかってくるはずです。一日でもはやく、そして一人でも多くの人が覚醒することを願っています。

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