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新時代通信NO52【日本の歴史8】

21年10月21日

この通信では日本の歴史をお伝えします。明治維新の立役者であった西郷隆盛は西南戦争で死んだとされていますが、実は台湾に逃亡したのです。それは再度政府に対抗するためであり、台湾との友好を深めることで兵力を借りようとしていたのです。しかしそれは実現できないままで終わりました。西郷の偽物は現地ではとても人気がありました。

 

明治天皇が崩御されて大正天皇の時代になりましたが、この頃すでに西洋文化は定着し大正デモクラシーが沸き起こって民主主義が盛んになっていきました。しかし、それは戦争への根回しでもあったのです。富国強兵を旗印に国民を戦争に巻き込むため選挙権を与え、いかにも自分たちで国を動かしていると思わせたのです。それを暗躍したのが三菱などの財閥です。より販路を広げるためには中国やロシアと対等に張り合う必要があり、場合によっては戦争で領地を少しでも占領するつもりだったのです。そのために軍事力を高めることと、戦争になってもおかしくない状態を作り上げるために国民を躍らせたのです。自由と言う名のエサで。その暗躍は着々と進み、日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦へと進みました。そんなことも知らずに国民は戦争に駆り出されていきました。

 

大正天皇は病弱であまり公務もできなかったので、その代役をしたのが次の昭和天皇です。昭和天皇は北海道で日本古来の天皇、スメラミコトの末裔として暮らしていましたが、時の政府に連れてこられて慣れない地でたいへんご苦労されました。まず、言葉のちがいです。それまでは標準語をはなされていたのですが、皇室の独特の言葉づかいを覚えるところから始めました。さらに儀式の作法や従者の人たちへの対応方法などすべが一変したため時々体調を崩されました。ある程度慣れるのに5年を要しました。その頃、大正天皇が崩御されて即位されました。昭和天皇はとても聡明で優しくて慈愛に満ちあふれていました。しかし、周りの従者たちが天皇の威厳を持たせるためにその優しさを封じ込めるようにさせました。そのため本来のお姿は見えなくなってしまったのです。

 

昭和に時代はじょじょに軍国国家への道をたどりました。経済を発展させるために資源の確保と市場の拡大を広げるために、軍による占領を実行していったのです。中国や東南アジア、さらには太平洋の島々を占拠していきました。時には激しい戦いもしましたが、当時それらを植民地化していたフランスやイギリス、オランダは第一次大戦の痛手を受けて戦力を欠いていたので、たやすく奪うことができました。しかし、アメリカは日本の進出をこころよく思わなかったので、日本を叩きのめそうと密かな画策をしました。それが真珠湾奇襲攻撃です。アメリカはじわじわと日本の占領地を奪い取り、特に石油資源を持っている地域を重点的にしたため、日本はこらえきれなくなって戦争に踏み切ったのです。アメリカはそれを導いたのです。日本がアメリカに戦争を仕掛けてくることを。当時のアメリカは第一次世界大戦でかなり疲弊していたので、さらにまた戦争をする雰囲気ではなかったのです。そこで日本に真珠湾を攻撃させてアメリカ国民のナショナリズムに火を付けようとしたのです。それは見事に成功し、太平洋戦争へと進んでいったのです。

 

真珠湾奇襲攻撃で一隻だけ無傷のままでいたのが空母エンタープライズです。一隻だけを残して後はすべて日本軍に攻撃させることでアメリカ国民を奮起させたのです。当時のアメリカ大統領ルーズベルトはその黒幕でもあったのです。日本はまんまとアメリカの策に陥って泥沼の戦争に突入していったのです。このことはすでにアメリカの公文書で立証されています。しかし、アメリカの真の目的は日本を根絶やしにすることだったのです。ルーズベルトは日本人の優秀性と勤勉性、そしてその底力となる潜在能力を恐れていたのです。このままほっておくとアメリカにとって脅威となると感じていたのです。そのため、ある段階で叩き潰そうと虎視眈々と狙っていたのです。さらに、天王を神と崇めるその精神性にもある種の恐れを感じていました。それは命知らずの者ほど怖いものはないからです。そんな日本人を根絶やしにするために真珠湾の奇襲を容認したのです。

 

太平洋戦争で日本が優勢だったのは1年足らずで、じょじょにアメリカ連合国に押されて太平洋や東南アジアの占領地は奪還されていきました。そのため日本も資源が枯渇し始めて、国民に厳しい生活を強いるようになり、寺の鐘や銅像に鍋や釜などを供出させました。この時、神社も銅製の屋根や欄干に鏡を供出したのです。その時、伊勢神宮の鏡の裏に書かれていた文字が発見されました。それまでは鏡の裏を見ることはあまりなかったので気づかなかったのです。その文字はヘブライ語で書かれていて、「我は在りて在るものなり」と書かれていたのです。このことは極秘にされたのですが、都市伝説のように今でも語り継がれています。その真相は本当で、この鏡はユダヤの十二支族の内、失われた十支族の一つが日本に持ってきたのです。ユダヤと日本の関係はいろいろな事が言われていますが、今から6千年前に日本から渡った天皇、スメラミコトの皇子がシュメールの民と共に文明を興し、その時の民がユダヤ人だったのです。しかし、近隣の国に攻め滅ぼされて各地に離散し、その中の一支族が日本に渡ってきたのです。それが今から3千年前になります。逃れてきたユダヤの民は日本に同化し、自分たちが信仰していた神を日本の神の中に同化させるためにあることをしました。

 

それは三種の神器の一つである鏡の後ろに、自分たちの信仰していた神の印を刻み込んだのです。それが「我は在りて在るものなり」の言葉なのです。これは古代ユダヤの人たちが信仰した神、ヤハウェを表しているのです。モーゼに十戒を降ろしたとされる神です。このことから日本人の先祖はユダヤ人ではないかとう話が持ち上がってきたのですがユダヤの民のルーツはアトランティスで、その民を導いたのが日本のスメラミコトの皇子とシュメールの民だったのです。そのため迫害されて離散した一部の支族が日本にやってきたのです。当時は日本には弥生人が主体に住んでいたため、ユダヤの民は争うことを避けるために四国の山奥に住んでいました。それが剣山で、この山にはソロモンの秘宝が埋められているという伝説があります。ソロモンとは古代イスラエルを統治していた王の名で、実在した人物でもあります。剣山周辺に定住したユダヤの民は、祖国のことを懐かしむために剣山に王の証となるアークを埋めたのです。アークとは棺で、中には王の装飾品が入れてあったのです。このアークが元になって祭りに使われる神輿ができたのです。また現在の宮司や神主の衣装も当時のユダヤの民の司祭が着ていたものが元になっています。このアークは今も埋まっているとされていますが、実はすでに宮内庁で保管されています。もちろん極秘事項になっています。剣山には時々皇族の方が訪れます。そのため山頂付近まで立派な道路ができているのです。この山は古代ユダヤの民がはるばる日本にやってきて、スメラミコトの文化を逆輸入してくれたことに感謝するために。

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