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新時代通信No111【日本の神々3】

22年02月02日

この通信は「日本の神々」についてお伝えします。多くの神は天津神、国津神、現津神に分けられます。それぞれに多くの神がおみえになるのですが、私たちに一番身近な神様が現津神なのです。現津神の多くは、今から1万5千年前に沈んだとされるムー大陸の民の魂が神となったのです。

 

現津神の代表的な存在がアマテラスノカミなのです。伊勢神宮や熱田神宮に祀られている神様なのです。そしてスサノオノミコトやニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノカミにセオリツヒメノカミ、イワナガヒメノカミにタマヨリヒメノカミなど、古事記に登場する神々なのです。しかし、古事記に出てくるお役目や姻戚関係、その素性はでたらめなのです。それぞれの神のお役目は改めてお伝えしますが、アマテラスノカミ以外はあまり知られていません。スサノオノミコトは時折祀られてはいますが、その他の神々はまれです。なぜなのか、現在の日本の神社で一番多いのが稲荷神社と八幡神社なのです。稲荷神社は商売繁盛や五穀豊穣、家内安全、念願成就など人の願いを叶えてもらうための神社です。八幡神社は昔から武将が戦勝祈願をしたことから、勝負事や受験、スポーツや賭け事などが成就することを願ってきました。どちらも願いをお願いする神社なのです。しかし、先ほどの現津神は基本的には願い事をすることはしません。感謝を伝える神様なのです。

 

稲荷神社や八幡神社はおよそ2000年前に朝鮮半島から渡って来た人たちが信仰していた神なのです。稲地神社は京都の伏見に、八幡神社は大分の宇佐にその本山がありますが、どちらも朝鮮半島から渡って来た人たちが定住したところなのです。その人たちが全国に移住してそれらの神を祀るようになったのです。当時はすでに現津神が祀られていたのですが、そこは聖地であり村や町の中心となる場所が多かったので、朝鮮由来の人たちは自分たちが崇める神をその地に祀るようになったのです。初めは隅の方で祀っていたのですが、願い事が叶う神だと吹聴することでじょじょに大きくしていったのです。逆に、今まで祀られていた現津神が隅に追いやられるようになり、今に至っているのです。さらに、本来の名前やお役目も改ざんされて、本当の名前や由来もわからなくなっているのです。中にはまったく異なった神として崇められているのです。たとえば、スサノオノミコトは乱暴者でアマテラスノカミを困らせたと伝えられていますが、実際はアマテラスノカミの意志を具現化する神で、ある意味で一心同体の神なのです。他にもとんでもないことがまかり通っているのです。

 

また、現津神の素性をわざとわからなくさせている場合もあります。ニニギノミコトはアマテラスノカミの孫となっていますが、これもまったく異なっていて、このお二人の神様は生前は夫婦だったのです。ムーの民として暮らしていた時は、とても仲睦まじき夫婦だったのです。それが祖母と孫の間柄であると伝えられているのです。このようなことがとても多くあり、いかに古事記や日本書紀の内容がでたらめであるかがわかるのです。ではなぜ、私がこのようなことがわかるのか、すべては闇に埋もれてしまっている現津神の真実を。それは私の過去世がムーの最後の最高神官であり、王であったからです。
信じられないかもしれませんが、私の過去世はムー大陸が沈むことを予見していていました。多くの民に避難するように伝えたのですが、その多くは信じなかったのです。当時はすでにオリオンの精神的な懐柔が巧みに行われ、王の言うことを信じる人はごくわずかになってしまっていたのです。そのため、この王はわずかな民を日本列島に避難させたのです。そして、王は残された民を見守るために残ったのです。日本列島に避難したムーの民はおよそ2万人で、高山を中心にたどり着いたのです。この時、日本列島も大きな津波がやって来て、最大で1000メートルの巨大津波となったのです。そのため現在の岐阜県と長野県の山間部と、東北に四国、そして九州の山間部を残してすべて海に沈んだのです。ムーの避難した民はその山にとどまって水が引くのをまったのです。つまり、山で止まったから「ヤマト」なのです。本来は「山止」と書くのです。それがいつしか「大和」となったのです。

 

当時はすでに縄文人も住んでいたので、多くの縄文人も亡くなってしまいました。ムーの民たちは残された縄文人に生活に必要な知識や知恵を教えていきました。そして村社会の在り方や人同士が助け合っていく大切さも。やがて縄文人は全国に集落を作るようになり、そして集落にムーの民を祀るようになっていったのです。ある意味で縄文人にとっては、神だったのです。ムーの民も自分たちが信仰していた神々を祀るようになりました。それが天津神であり、国津神なのです。縄文人にとってはまだ理解できない存在だったので、ムーの民に習って崇めるようになったのです。しかし、ムーの民は高度に進化していたためその繁殖力は低下し、子孫を残せなくなっていったのです。そこで、縄文人に自分たちの遺伝子を加えることで、ある意味でその血筋を残そうとしたのです。それを強く引き継いでいるのがアイヌの人と沖縄の人なのです。両者とも自然を大切にし、すべての神を信じ、人と助け合うことを大切にしています。

 

ムーの民はおよそ1万年前に絶滅しました。その後縄文人は独自の文化と精神性を守ってきたのですが、5000年ほど前から大陸から多くの人が移住してきたのです。いわゆる弥生人と呼ばれる人たちです。その多くは朝鮮半島からやってきたのですが、とても独占欲が強く攻撃的で、縄文人の住んでいた土地を奪い、時には虐殺していったのです。多くの縄文人は住み慣れた土地を奪われて北や南に逃れていったのです。弥生人たちは、それまで縄文人が祀っていた神聖な場所に自分たちが信仰する神を祀るようになったのです。そのため、それまで祀られていた日本の神々は隅に追いやられ、時には名前を改ざんされ、時には抹消されてしまったのです。およそ2000柱の神々がその存在を消されてしまったのです。わずかに残された神々もその素性やお役目、そして姻戚関係がでたらめに伝えられているのです。このシリーズでは、それを正していきます。特にムーの民の魂が神となった現津神を中心に。国津神と天津神については、改めてお伝えすることになります。この「新時代通信」をすべて書き終えた後に、新たな通信をお伝えしていきます。そこで国津神と天津神のことを詳しくお伝えすることになります。

 

古事記に登場する多くの神が現津神であり、ムーの民なのです。そのことは今までに公にされたことはありません。今回が初めてとなるでしょう。逆に言えば、やっとその時がきたのです。この真実を知らないと、これからの新しい時代を作っていくことはできないのです。多くの現津神が今、動き出しています。ご自分のお役目を果たすために、それに見合った人をお探しになっているのです。まさしく神と人が一つになっていくのです。そのお手伝いを私はさせていたただいています。

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