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神時代通信

神時代通信No38【愛染明王】

22年10月11日

愛染明王(アイゼンミョウオウ)は、人の愛欲を仏の愛に変える神なのです。人は人を好きになったり、愛したりします。しかし、時には愛に狂ってしまって人生を棒に振ってしまうこともあります。そうならないように、愛欲を節度のあるものにしてくれるのがこの神の役目なのです。節度とは、見返りを求めない愛なのです。

 

人が人を好きになり、愛することは当然であり、またそのことで人は成長していくのです。しかし、その思いが強くなりすぎると見返りを求めたり、相手を独占したくなるのです。そのためストーカー行為をしたり、時には暴力をふるったり、さらには殺人事件にまでなることがあるのです。特に男性はその傾向が強く、愛欲が独占欲や支配欲に変わっていくのです。女性は母性愛があるので、そのようなことにはなりにくいのですが、いずれにしても愛欲は度を越えてしまうと、狂気となってしまうのです。それをくい止めてくれる神が愛染明王なのです。

 

愛欲はなぜ必要なのか、それは愛する人のために無償の行為をするためなのです。人が生まれてきた目的はさまざまですが、その多くは人のために何かしらのことをするためなのです。自分の楽しみだけを体験するために生まれてきたのではありません。人を助けたり、支えたり、応援したり、導いたりするために生まれてきたのです。それをするためには、広い意味での愛が必要なのです。恋愛ではなく、相手が幸せになってくれることを願う愛なのです。その愛が高まることで人の心は成長していくのです。真の愛は見返りを求めず、ただひたすら出し続けるものなのです。それは太陽がすべての生き物に、分け隔てなく光をそそいでくれるのと同じなのです。ある意味で、太陽の光が神仏の愛でもあるのです。真の愛をいかに出していくかが、人として生まれてきた最大の目的なのです。

 

愛欲は幼い頃からのさまざまな体験によって養われていきます。母親の無償の愛を一心に受けて育った人は、やはり人に対して無償の愛を与えることができます。しかし、さまざまな理由で幼少期に母親の愛情を十分に受けていないと、愛欲が屈折したものになってしまうことがあるのです。もちろん、すべての人がそうなるわけではありませんが、得てしてそういうことがよくあるのです。また、厳しくすることが愛情だと勘違いしている人もいます。逆に、ほったらかしにしておくことが愛情だと思っている人もいます。幼少期は母親が無償の愛をたくさんそそぐことが必要なのです。親の思う通りに育てるのではなく、子どもの感性をいかに豊かにするかを第一にしなければならないのです。

 

ひと昔前までは厳しく育てることが当たり前だと思われていました。逆に今は放任主義が主流になっています。どちらも極端なところがあって、ある程度の厳しさと自由さが必要なのです。そこには子どもを本当に愛する心が根底にあることが必要なのです。太陽の光のようにいつも降りそそぐ愛があってこそ、子どもはすくすくと育っていくのです。
「我は愛染明王なり。我は人々に本当の愛を伝えるなり。本当の愛とは見返りを求めることなく、太陽の日のごとくただひたすらにそそぐものなり。されど人はどうしても見返りを求めてしまうものなり。その欲が強くなるほど人は愛欲に溺れていくなり。ひとたび愛欲に溺れれば、人は鬼や邪と化すなり。さすれば生きながらにして地獄に落ちるなり。地獄に落ちた者を救うことは至難であり、我の力でも及ばぬことなり。地獄に落ちる前に救うのが我の役目なり。人々に伝えるなり。人を愛せよ、されど見返りは求めるなかれ。求める愛は愛にあらず。それは愛ではなく、我欲にすぎないことなり。我欲と愛を履き違えている人々が、この世には多すぎるなり。このままでは地獄に落ちる者が増えるばかりなり。地獄に落ちた者は、大元の神によって消滅させられるなり。そのことをしかと心得るがよい。」

 

我欲と愛はコインの裏表のようなもので、最初は愛でもそれが強くなりすぎると反転して我欲になってしまうのです。そのようなことがとても多くなってきているのです。なぜなら、幼少期に母親から無償の愛を十分に授けてもらわなかった人が多くなってきているからです。戦後、高度成長期は共働きが当たり前となり、幼少期から保育所や祖父祖母に預けられ、さらには小学生になると鍵っ子となって、特に母親の愛情を十分に受けないまま大人になった人が多くなりました。その人たちの子どもも同じようなことをくり返し、ますます愛情がうすくなっていったのです。今現在は、戦後生まれの孫の世代が子どもを持つようになってきました。三世代にわたって、幼少期の子どもに対する愛情が希薄になってきたのです。そのため、我欲を強く持つ人が多くなっているのです。

 

我欲を強く持った人たちをどのようにしたら変えることができるのか、それは人の力を借りないと生きていけない状況にさらすことで変わるのです。たとえば、事故やケガ、または大病などで人の手を借りないと生活できない状態や、自然災害で住む場所を失くし、食べることもままならない状態になって初めて人の思いやりに感謝できるようになり、我欲は小さくなっていくのです。今、世界中で自然災害や異常気象がエスカレートしています。ある意味で我欲を少なくさせるために、神々の力が働いているのです。しかし、それでも我欲が小さくならなければ、神の裁きを受けるしかないのです。

 

愛染明王は一人でも多くの人が我欲を小さくして、人のことを思いやれるようにするために奮闘されているのです。仏教ではこの神を愛欲を仏の愛につなげる神と言っています。なぜ愛欲が仏とつながるのか、それは愛に対する解釈の仕方が異なっているからです。仏教では慈悲の中に愛が含まれていると考えます。そして慈悲は人を慈しむことであり、受け入れることでもあると考えられています。したがって、今のような人を愛するという考え方はあまりしなかったため、愛を慈悲と考えていたのです。そのため、人の慈悲の心を大きくして仏のようにする神と解釈すると納得できるのです。さまざまな解釈が長きにわたって伝えられてきたため、本来の意味から遠ざかっていることもあるのです。

 

人を慈しむとは思いやること。思いやるとは相手の考えを受け入れること。受け入れることで共感することができます。共感すれば優しくすることができます。それが大きな意味での愛なのです。人のことを好きになる愛は、時として人の我欲を駆り立てます。大きな愛を持てるように日頃から意識していくことが必要なのです。愛染明王はそのことを訴えられているのです。

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